天暦年間(947~957年)桜井康成の創建と伝えられる寺院で、天誅組が本陣としたことで知られています。
幕末の1863年(文久3年)8月、吉村寅太郎・松本奎堂(けいどう)ら脱藩士を中心とする尊王倒幕の急進派は、中山忠光を擁して天誅組を結成し、大和挙兵を謀りました。天誅組は17日に五條代官所を襲撃し、代官・鈴木源内らを殺害、この寺を本陣として五條新政府を号しました。しかし朝廷の政変により政情が一変したため、十津川郷士960人の来援を得て高取城に侵攻、敗退しました。その後、追討諸藩兵と戦闘を繰り返し、9月24日吉野山中鷲家口(わしかぐち)にて決死的斬り込みを敢行、壊滅しました。
門前には史跡天誅組本陣址の石標が立ち、本堂前には代官・鈴木源内ら5人の首を洗ったという石手水鉢(ちょうずばち)が置かれています。また、浄瑠璃『艶容女舞衣』の三勝・半七の塚もあります。